劉盆子(りゅうぼんし)は新末後漢初に新朝に対する叛乱である赤眉軍の指導者の一人。漢の皇族。斉の悼恵王・劉肥の次男の城陽景王・劉章の末裔。兄に劉恭、劉茂がいる。
前漢が王莽によって滅ぼされると、父の劉萌は庶民に落とされた(『漢書』王子侯表)。
18年、赤眉軍が泰山郡を襲った際に、劉盆子は二人の兄共に赤眉軍に捕らわれた。その後赤眉軍で牛の世話を仕事とし「牛吏」と呼ばれた。
25年、関中に侵攻した赤眉軍は、更始帝の兵を各所で破り、華陰(弘農郡)に至った。ここで、従軍していた巫(かんなぎ)がトランス状態で劉氏宗族を天子に立てよと言い、更始帝に殺された方望の弟方陽が、劉氏宗室の者を擁立して、軍の正統性を確保することを勧めた。樊崇ら赤眉軍諸将は協議して、信奉していた城陽景王に一番血筋が近い者三人から籤で選ぶことにした。年齢順で籤を引いた結果、順番の最後の15歳の劉盆子が籤に当たった。赤眉軍は同年6月、劉盆子を皇帝に擁立し、建世元年と号している。
同年9月、赤眉軍は、更始帝に反逆した張卬らの手引きにより、長安を攻め落とし、更始帝を降伏させてその政権を滅ぼした。しかし樊崇らの支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。
26年(建世2年)春、赤眉軍は糧食が尽きた長安を捨てて西進するが、安定郡で隗囂と戦い、大雪に遭い多くの死傷者を出して、結果的に東に還ることとなった。
27年(建世3年)、樊崇らは、光武帝の大司徒鄧禹の漢軍を各地で撃破しながら東進を続けたが、崤底(弘農郡黽池県)で馮異率いる漢軍に大敗した。樊崇ら主軍は南東の宜陽(弘農郡)へ逃れたが、既に光武帝が宜陽を収めて、前途を塞いでいた。樊崇らは兵糧が潰えていたため戦わず、ついに指導者樊崇以下30人は肉袒(上半身を肌脱ぎ)して降伏し、洛陽に送られた。
光武帝は劉盆子を憐れみ多くの恩賜を与え、叔父の趙王・劉良の郎中に採り立てた。その後劉盆子は失明するが、不自由なく余生を送れるようにと滎陽(現在の河南省滎陽市)に土地を授かった。
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