2009年06月19日

微細構造が見られるようになったことによる

微細構造が見られるようになったことによる影響の一つは、分子生物学と細胞学との結び付きにも現れる。分子生物学の進歩は生物学を大きく変えたが、光学顕微鏡によって得られる細胞像は、分子レベルとはスケールの差があまりに大きく、細胞の構造と結び付けるのが難しかった。微細構造はそのレベルの差を大きく減らし、直接に分子からなる構造を認められる。細胞膜の構造モデルや筋収縮の機構の研究などはこのよい例である。

電子顕微鏡の光学顕微鏡に対する利点の一つは、上記のような、圧倒的な分解能の差にあり、これは特に透過型電子顕微鏡の得意分野である。しかし、もう一つ、表面構造の見やすさも挙げなければならない。走査型電子顕微鏡は対象物の表面に電子線を当て、その表面の非常に立体的な像をもたらした。これは、実は光学顕微鏡の非常に苦手な分野であった。立体的に表面を見るのは双眼実体顕微鏡によるのであるが、これは倍率がせいぜい100倍程度にしかならず、しかもそれほど細部が明確に見えない。それ以上細かいものは通常の光学顕微鏡によるが、こちらは立体的映像をもたらすようにはなっていない。したがって、細胞表面の構造などは走査電子顕微鏡を使って初めて見つかったものが結構あり、これらはそれほど小さいものではなくとも微細構造と呼ばれることがある。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

代表例 [編集]
あらゆるものに対して電子顕微鏡を使えば細かい部分が見えるのであるから、個々に挙げる意味は余りないと思われるが、歴史的に重要と思われるものをいくつか挙げる。

細胞膜と生体膜系 [編集]
動物細胞の表面に外界との仕切りとなる膜が存在することは想定されていたが、顕微鏡では見分けられないものであった。植物細胞の場合、外側には厚い壁状の膜が確認でき、これを細胞膜と呼んだが、その内側にさらに薄い膜があることは原形質分離などの現象から想定されていた。この膜は原形質膜と呼ばれた。いずれにせよ、細胞膜も原形質膜も光学顕微鏡で確認するには薄すぎた。

電子顕微鏡で細胞膜が確認できたのは1950年代になってからである。 細胞膜が二重膜構造になっていることは、それ以前からも仮説としては言われていたが、それが確認されたことから、膜構造についてより詳しい研究が行われるようになった。さらに、小胞体や核膜など、細胞器官にはほぼ同じ構造の膜から構成されたものがいくつもあることが分かり、それらは共通した生体膜という構造として理解されるようになった。

同時に、細胞質がそれまでの想像以上に複雑な構造を持っていることが明らかとなった。それまでは細胞内は核及び、主要な細胞器官とそれを含む比較的均質な細胞質基質からなると考えられ、これをまとめて原形質と呼んだが、この言葉もあまり使われなくなった。

2009年06月01日

親任官(しんにんかん)は

大日本帝国憲法下における官僚の階級の一つ。明治憲法下の官僚制度での最高の位置付けで、天皇の親任式を経て任命される。敬称に閣下を用いた。

なお、日本国憲法下においても、内閣総理大臣と最高裁判所長官は親任式で天皇から任命されるが、同憲法施行に伴って親任官・勅任官などの区分が廃止されたため、現在「親任官」と呼ばれる官等は存在しない。

内閣総理大臣、対満事務局総裁、枢密院議長、枢密院副議長、枢密顧問官、内大臣、宮内大臣、国務大臣、特命全権大使、大審院長、検事総長、会計検査院長、行政裁判所長官、朝鮮総督、朝鮮総督府政務総監、台湾総督、神宮祭主、企画院総裁、東京都長官、地方総監など
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陸軍大将、海軍大将

武官の場合は文官と違い、官(すなわち階級)と職が分かたれていたため、親任官となるのはあくまで陸海軍大将のみである。代わりに、親任官相当の職として宮中において親補式を以て補職される「親補職」というものが設けられていた。これに該当する職に中将以下が就いたときは、在職期間中のみ親任官としての待遇を受けるものとされた。

主な親補職 [編集]
参謀総長、軍令部総長、教育総監、総軍総司令官、方面軍司令官、軍司令官、師団長、留守師団長、侍従武官長、東京警備司令官、関東戒厳司令官、東京防禦総督、東京衛戍総督、連合艦隊司令長官、艦隊司令長官、鎮守府司令長官

親補職の親任官待遇について現階級に関する規定はなかったが、親補職は大将もしくは中将を以て補職することとされていたため、実際に少将以下が親任待遇となることはあり得なかった。

なお、元帥は元帥府に列せられた陸海軍大将に与えられる称号であるため、官としては陸海軍大将の資格を以て親任官とされる。ただし宮中席次は当然に元帥の方が上になる。

また、陸海軍省の次官は親補職ではなかったが、下手な親補職より大きな権限があった。豊田貞次郎が鎮守府司令長官時代に「いま自分が親補職にあるからといって次官就任をいやがるなどと思わないでほしい」と山本五十六に手紙を出したことがある。

2009年04月29日

僧兵

僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。

法師武者あるいは武装した僧侶を僧衆、悪僧と同時代でいうが、それを江戸時代以降の「僧兵」と呼称した言葉である。ちなみに悪僧の「悪」は悪党の悪と同じで「強い」という意味合いである。主に寺社勢力に所属する武装集団である。その風貌は絵巻物などに描かれ、頭を包む布や、高下駄、薙刀などが特徴とされる。髪は剃っていなかった可能性が高い。なお、これに対し、神社に所属する武装集団を神人(じにん)という。また、日本以外にも嵩山少林寺のように僧兵として武装集団を組織する仏教僧の集団がおり、広義には武装した宗教集団を指すこともある。その場合はヨーロッパの騎士修道会も含まれることがある。
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僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な寺領・神領を有して経済的に豊かであった寺社は盗賊のみならず、さまざまな勢力によって狙われる危険性が生じた。このため、こうした動きから寺社を防衛する武力を保持する必要が出てきた。このような時代背景のもとに一見矛盾するように見える「寺院・神社の武装化」が推進される事になった。

京都・奈良の大寺院の雑役に服する大衆(堂衆)が自衛武装したもの。平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。以仁王の乱では平家とも争う。『平家物語』などにも、その描写がみられる。特に、興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師と呼ばれた。白河法皇は、自分の意のままにならないものとして「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げているおり、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。

中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。源平の争乱の時には熊野水軍を取り仕切っていた熊野権現にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。

室町時代に、かつて義円と名乗り天台座主だった足利義教が、僧兵の軍事力と粗暴さを熟知しているため、延暦寺討伐に動き出して大規模の弾圧を実施した(後年の織田信長も同様のことをやっている)。

各地の有力寺社が軍事力を保持する傾向は豊臣秀吉による刀狩まで続いた。戦国時代の有力僧兵団として以下の例がある

2009年04月14日

劉盆子

劉盆子(りゅうぼんし)は新末後漢初に新朝に対する叛乱である赤眉軍の指導者の一人。漢の皇族。斉の悼恵王・劉肥の次男の城陽景王・劉章の末裔。兄に劉恭、劉茂がいる。

前漢が王莽によって滅ぼされると、父の劉萌は庶民に落とされた(『漢書』王子侯表)。

18年、赤眉軍が泰山郡を襲った際に、劉盆子は二人の兄共に赤眉軍に捕らわれた。その後赤眉軍で牛の世話を仕事とし「牛吏」と呼ばれた。

25年、関中に侵攻した赤眉軍は、更始帝の兵を各所で破り、華陰(弘農郡)に至った。ここで、従軍していた巫(かんなぎ)がトランス状態で劉氏宗族を天子に立てよと言い、更始帝に殺された方望の弟方陽が、劉氏宗室の者を擁立して、軍の正統性を確保することを勧めた。樊崇ら赤眉軍諸将は協議して、信奉していた城陽景王に一番血筋が近い者三人から籤で選ぶことにした。年齢順で籤を引いた結果、順番の最後の15歳の劉盆子が籤に当たった。赤眉軍は同年6月、劉盆子を皇帝に擁立し、建世元年と号している。

同年9月、赤眉軍は、更始帝に反逆した張卬らの手引きにより、長安を攻め落とし、更始帝を降伏させてその政権を滅ぼした。しかし樊崇らの支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。

26年(建世2年)春、赤眉軍は糧食が尽きた長安を捨てて西進するが、安定郡で隗囂と戦い、大雪に遭い多くの死傷者を出して、結果的に東に還ることとなった。

27年(建世3年)、樊崇らは、光武帝の大司徒鄧禹の漢軍を各地で撃破しながら東進を続けたが、崤底(弘農郡黽池県)で馮異率いる漢軍に大敗した。樊崇ら主軍は南東の宜陽(弘農郡)へ逃れたが、既に光武帝が宜陽を収めて、前途を塞いでいた。樊崇らは兵糧が潰えていたため戦わず、ついに指導者樊崇以下30人は肉袒(上半身を肌脱ぎ)して降伏し、洛陽に送られた。

光武帝は劉盆子を憐れみ多くの恩賜を与え、叔父の趙王・劉良の郎中に採り立てた。その後劉盆子は失明するが、不自由なく余生を送れるようにと滎陽(現在の河南省滎陽市)に土地を授かった。

オメガ みしょう リプロヘル ひらがね 神の手 マップ るりこん ウシュ とよのか ブランデー タイプ リンギット ストール スキット ダビデ ケトル アグリ リーマン カサブ ラリアット ブライ バーン レジオ シザ イリノイ 誠の旗 こりんき サンキライ ひすい えーがた オーロ マルチ ジルコン セコンド ラダーラ ハラル アシン リトラコ リバティ フリー ヘメロ シャチ モッズ ロータリ タォマ ザール ハウリン もちがせ 紅の水 ダン


2009年03月30日

ヌードモデル

ヌードモデルとは、写真や、絵画・彫刻の作成などのために使用される裸体像、もしくは裸体像を提供する人物。

絵画や彫刻、パフォーマンスアートなどの分野では、しばしばモデルにヌードが要求される。この分野では直接的に「ヌードモデル」と呼ばず、間接的に「美術モデル」や「アートモデル」と表現することもあるという[1]。
ニンソウ フウラン ヒップ バビリン 竹の舞 しずくいし ヤッピ つばめ くりたけ クラー うたま ウシや ガーズ オーデエ タッチ じょうぼう モウセン セプタム パラセ スパイク フェロ くらし やさしい サブミッ コール スイマー フラン フマン スモー ちずい バスラ ほこたし クロムダ プレパラー つるむ レターイン ストーン イルミネ スピンタ イルマン ルリナ テスト ばなな メリー コリン パーベ リッチ かずら ドライト オリジ

ヌードデッサンは美術学生の鍛錬において重要なプロセスのひとつになることが多い。しかし、各地域の宗教的価値観によっては、環境の確保が極めて困難となることもある[2]。

グラビア系
日本 [編集]
日本のグラビア業界では単にヌードモデルと言った場合、写真集や雑誌のグラビアなどで、主としてヌード(特にヘアヌード)写真を提供するモデルを指す。大部分は女性である。

ただし日本においては、グラビアでヌードになる人物は

ヘアヌード写真集などで単発的に「脱ぐ」著名人。
AV女優や風俗店従業員など、性産業に深く関わるもの
スカウトなどにより出演する、いわゆる素人モデル
といった例がほとんどであり、ヌードモデル専門のプロとして活動する者は数少ない。ヌードモデルからAV女優に転向するケースも少なからずあるため、ヌードモデルの肩書きを長期間維持する例は極めて希少である。

2009年03月14日

ジェロニモス修道院

ジェロニモス修道院とはポルトガルの首都であるリスボンのベレン地区にある修道院であり、世界遺産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。

付近には同じく世界遺産であるベレンの塔や発見のモニュメントが存在する。

2007年12月13日に、リスボン条約の調印式が行われた場所でもある。
ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット

ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっている。
その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた。

構造 [編集]
サンタマリア教会
南門
西門
西門から入ってすぐの所に、ヴァスコ・ダ・ガマとルイス・デ・カモンイスの棺が安置されている。
回廊
国立考古学博物館
海洋博物館

2009年02月26日

奇怪な事件およびその主犯となる

基本的には、小学生の子供(主人公・東光太郎の友人である白鳥健一少年の友達や同級生)の抱えるエピソードに、奇怪な事件およびその主犯となる怪獣達とZATの闘いが交差したものが多く、ZATの事件解決に終始している作品はほとんどない(後半では、東光太郎や他の隊員達はBパートに入ってから出番が増える回が多い)。これは第2次ウルトラシリーズの特徴といえるが、本作で最も顕著に表れている。

シリーズ序盤は敵は怪獣のみで、さらにそれらは実在の生物をモチーフとしたものが多かった。また初期の怪獣の多くに「?大怪獣」「大?怪獣」という称号が与えられているが、これは前作『ウルトラマンA』の「超獣(怪獣を超える存在)」の概念を覆し、「超獣を超える怪獣」であることを視聴者にアピールする必要があったためである。超獣の存在感が薄れ、作風が確立されて以後は「大怪獣」の肩書きは用いられなくなった。

その後メフィラス星人の登場を皮切りに宇宙人も多く登場するようになり、終盤では本作の顔とも言える独特で奇抜な怪獣が多く登場するようになった(その演出の奇抜さやストレートなネーミングについては、ファンの間で賛否が分かれている。後述)。なお、タロウやZATが怪獣、とりわけ人類と対立する意思を持たないものの生存権を尊重する描写も多く、回が進むごとに顕著になっている。

現在に至るまで、本作の作風の是非はしばしば論議の題材とされている。タロウではそれまでのウルトラシリーズの比較的シリアスなドラマから一転、子供に親しみやすく、温かみのあるストーリーが多くなっている。当時の想定視聴者層である子供達から「万人に親しみやすい新しいウルトラマン像を生み出した」と概ね好評を博した一方、初期作品のハードな作風を好むファンからの厳しい批判は放送当時から存在していた。具体的には「ウルトラシリーズの伝統的作風が失われた」、「ウルトラマンの質を落とした」、「客演するウルトラ兄弟が“弱体化”しすぎていて不自然」、「ZATはふざけ過ぎ」、「(特にシリーズ終盤の)怪獣のキャラクターが奇抜すぎる」などである。また、「ウルトラシリーズの幼児化が極まった」とも評された。「僕にもタロウのシナリオは書ける」という第26話のサブタイトルをもじった冗談が一部ファンの間で流布する事態も招来した。

これは前年に放映された『ミラーマン』の影響がある。『ミラーマン』は大人の鑑賞に耐えうる良作であったが、幼児層には「ミラーマンは面白くない」と不評だった。このためブルマァクが発売していた『ミラーマン』のソフビ人形は購買層の幼児に受けず、前述のように『ミラーマン』の商品展開は失敗した。

この反省から、本作は幼児層に受ける作風になる事が円谷プロとブルマァクの間で合意された。円谷プロとしても、関連商品の版権収入が落ちるのを望まなかったのである。

このように、本作は制作側が高年齢層を意図的に切り捨てている一面がある。しかし、その幼児層に向けた作風は彼らに受け入れられ、関連商品の売上は前作『ウルトラマンA』を大きく上回った。

こうした理由から第1次ウルトラ世代が、ムック本や特集本の執筆を重ねた70年代後半は、タロウを含む第2次ウルトラシリーズについて辛い評価を下しているものが多い。第1次ブーム世代のライターや業界人には概して不評で、怪獣画家の開田裕治はタロウの対戦怪獣に初代エレキングを描いてお茶を濁すなど、あからさまな手抜きをしたりしている。対して、90年代後半に辰巳出版より発売された「検証・第2次ウルトラブーム」にあるように、第2次ウルトラブームを中心に視聴した世代が執筆したものについては、より客観的な視点から社会背景を含めた再評価が行われており、第1次ウルトラと同等の評価を得ていると言える。これは他の第2次ウルトラシリーズにも共通している。

しかし、初代『ウルトラマン』の初期エピソードも決してシリアス一辺倒ではなく、タロウを彷彿させる子供中心でコメディタッチのほのぼのしたストーリーも多かった(子供の落書きが怪獣に実像化したエピソードである第15話など)。また、本作にもシリアスなシナリオや描写[1]や、子供番組には不釣り合いな残酷描写も少なくない。前述の評価は第1次ウルトラ世代の第1次ウルトラに対する美化、第2次ウルトラに対する主観的な思い込みも少なからず影響しているといえる。

番組の実績として、変身ヒーローブームが峠を越える中で平均視聴率18%を維持した(しかし前述のように幼児層向けになったため、それ以上の高年齢層に受けず、前作『ウルトラマンA』の平均視聴率18.6%よりは低下した)。また、第2次ウルトラの他作品が途中で何らかの路線変更(『帰ってきたウルトラマン』での宇宙怪獣およびウルトラブレスレットの登場、『ウルトラマンA』での「超獣」という制約と合体変身の撤廃、『ウルトラマンレオ』での特訓路線の解消や「円盤生物」編など)を余儀なくされた中で、本作は番組開始から終了まで、路線変更がほとんどない一貫した内容だった事も見逃せない。
バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン

キャラクターとしてのウルトラマンタロウ
ウルトラマンタロウはウルトラの父とウルトラの母の実子であり[2]、ウルトラセブンの従兄弟でもある[3]。また、主題歌の歌詞などから“ウルトラマンNo.6”の通称を持つ(厳密に数えると、地球防衛の任務に就いたウルトラ戦士としては初代ウルトラマンから数えて5人目なのだが、この頃からウルトラファミリー=ウルトラ兄弟の“長兄”としての地位が確立されたゾフィーを加え、6人目=No.6としている)。

身体の特徴としては赤を基調とし、頭部には超戦士の証である2本の太く大きな角・ウルトラホーンが生えている[4]。さらにセブンと同じく、額のビームランプとアイスラッガーのような大きな突起を持つ[5]。胸にはウルトラ戦士の象徴・カラータイマーも付け、歴代ウルトラ戦士のデザインの集大成的なキャラクターとなっている。また、ウルトラ戦士で唯一、必殺技の名前を叫んで使う(劇中ではウルトラの母のマザー光線や、ゾフィーのウルトラフロスト等も名前を叫んで使われている)。

地球上においては、宇宙科学警備隊ZAT極東日本支部の隊員・東光太郎として地球防衛の任務に当たっている(ストーリー上では、タロウはウルトラの命を与えられた東光太郎が変身した姿ということになっている)。ただし、ウルトラ兄弟とウルトラの母の協力によって光太郎と完全に一体化して新しい存在として生まれ変わったため、意識はおろか記憶も共有している。光太郎が左腕に装着しているウルトラバッジを[6]右手に持って眼前から頭上にかざし、「タロウー!」と叫んで変身する(当初は「デヤッ」等と叫び、バッジを掲げるだけだった。この一連の動きは、東光太郎役の篠田三郎の考案によるもの。なお、ウルトラマンシリーズで自分の名前=ヒーロー名を叫んで変身するのも、本作が最初である)。

他のウルトラ戦士と比べ、戦闘中にカラータイマーが点滅することが極めて少ない。

ウルトラ兄弟が地球に集合した第33・34話でタロウは、「兄に頼りがち」や「増長しやすい」と演出されている。これは番組内でウルトラ兄弟の客演が多く、主役のタロウは兄弟の中での強めの個性付けが必要だったためである。33・34話以外の回ではタロウはウルトラ兄弟の助けを借りないと、戦えないような描写は存在しない。戦いの中での兄弟たちの共闘も、あくまで援護の範囲にとどまっている(これは前述の「客演するウルトラ兄弟が弱体化しすぎていて不自然だ」と言われる一因でもある)。

また、第47話では宇宙警備隊員であるが故の苦悩や孤独が描かれている。

そして、タロウは最終回で変身能力を放棄し、人間・東光太郎として旅立っていった。

しかし、後の『ウルトラマンメビウス』から20年前(1986年)に、ゾフィー以外の4人の兄がエネルギーの大半を失いウルトラマンとして戦えなくなったため、光の国へ帰還。現在は宇宙警備隊の筆頭教官として後進を指導している。ウルトラマンメビウスはその教え子の1人である。

2009年02月09日

任那(みまな、にんな、369年[要出典] - 562年)

任那(みまな、にんな、369年[要出典] - 562年)は古代に存在した朝鮮半島の南部地域。三韓の中の弁辰、弁韓、および馬韓、慕韓の一部の地に相当する伽耶諸国地域と一部重なり合う。3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目において朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)であると書かれている。日本ではかつては任那をこれらの伽耶諸国全域と現在の全羅南道を含む地域とみなしてきたが、今日では伽耶諸国の中の金官伽耶国(現在の慶尚南道金海市)を指すものとする説もある(「#任那の指す領域」に後述)。しかし、後に示すようにこれには異説がある。
バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ

明治維新の後に唱えられた征韓論や、日韓併合あたっては、古代日本の任那支配が根拠のひとつとなり利用されたこともあるため、これら近代史の出来事を批判する立場の人々は、古代日本の任那支配を認める見解に対しても批判することが多い。このため戦後の概説書や教科書では任那問題を避けることが多くなっていた[1]が、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている『広開土王碑』の改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと[2]、またいくつもの前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による一定の統治機関の存在や、軍事的影響力および経済的利権の存在について認める様々な見解が発表されている。

日本による任那支配は、その実態に関する議論はあるものの、古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項であったが、今日、反日感情や民族主義が根強く「暴力的民族主義が歴史論争を封殺する[3]」、「厳格なジャッジなき学会が歴史を歪曲する[4]」「自尊史観が増殖する[5]」との批判を受ける韓国や、独裁体制の元で言論統制下に置かれている北朝鮮の歴史学界では否定する態度を取っている。

任那の語源については、『三国遺事』所収の『駕洛国記』に見える首露王の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae ,??)を転写したものとする鮎貝房之進の説が日本の学界では主流を占める[6]。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。

任那の指す領域
後述の諸史料のうち中国史料・朝鮮史料の解釈から、任那とは加羅(広義には伽耶諸国全域の総称、狭義には大加羅(=大伽耶、現代の慶尚北道高霊郡))とは別の実体を表すものであり、結論的には伽耶諸国の中の一国である金官伽耶国(現代の慶尚南道金海市)を指すものとする説がある。しかし、これには異説もある.

朝鮮史学者の田中俊明は、朝鮮・中国の史料では任那を伽耶諸国の汎称として用いることはなく金官伽耶を指すものと結論し、『日本書紀』においても特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるがそれは『日本書紀』に独自の特殊な用法とする[7]。日本史学者の吉田孝は、『日本書紀』が伽耶諸国を総称して任那と呼んだとする説が一般化していることを批判し、中国・朝鮮の史料では任那は金官伽耶単体を指すものであり、『日本書紀』の任那の用法は任那加羅(金官伽耶)を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指す特異なものであるとしている[8]。 朝鮮史学者の権珠賢は日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料における任那と加耶の全用例を精査し、任那は特定の小国の呼称ではなく、百済にも新羅にも属さなかった諸小国の呼称であること、任那の範囲と加耶の範囲は一致しないこと、任那という呼称は倭国と高句麗による他称であること、このような説を提示している[9]。

任那日本府
現在、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている[10]。

一方、1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、記紀に記されているヤマト朝廷の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた[11]。また日本でも1970年代に入り、それらに同調する主張がなされた[12]。

しかしながら、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いでおり(その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった[13])、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている[14]。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとする説[8]がある地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている[14]。そのため、ヤマト朝廷と深い関連を持つ集団(ヤマト朝廷から派遣された官吏や軍人、ヤマト朝廷に臣従した在地豪族)が伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについてはほぼ確実視されるようになった[15]。

ヤマト朝廷の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者は、これをヤマト朝廷の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後、朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたことがあった。しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと[16]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明し、朝鮮半島由来説は否定された[17]。

各種史料
中国史料における任那
『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる。

『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700?800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。

朝鮮半島史料における任那
朝鮮半島史料では任那は次の2つの記載しかない。

『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立) : 大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、ここでの任那は金官伽耶を指すとされている。
『三国史記』(1145年成立) : 本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。

日本史料における任那
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場し、
『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を繰り返し求めており、従来日本(倭)に対し朝貢していたように書かれている。なお、646年(大化2年)、高向玄理が新羅へ派遣され、質(人質の意だが実質的には外交官と推察されている)を送ることと引き替えに、これまで「任那の調」の代行納入を新羅に求めることは廃止され、質として金春秋(後の武烈王)が来日している[18]。

魏に続く晋代になり、290年頃に八王の乱が起きて中原が乱れると、鮮卑の慕容氏が強勢になって遼東と遼西に進出し、楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化した。そして高句麗の攻撃を受けて、313年には楽浪郡が、翌314年には帯方郡が滅亡した。346年には前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年の前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年代、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。

2009年01月24日

助数詞(じょすうし)

トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

助数詞(じょすうし)は、数を表す語の後ろに付けてどのような事物の数量であるかを表す語。数詞を作る接尾語の一つ。

日本語のほか、中国語など東アジアの多くの言語、またアメリカ大陸先住民の言語などにある。中国語などでは、例えば「个」は数の後につけて「一个人」(ひとりの人)とするほか、「那个人」(あの人)のように指示代名詞を伴ったり、単独で名詞と結び付いたりする場合も用いるので、類別詞あるいは量詞とも呼ばれる。

日本語ではこの種類の語が非常に発達しており約500種類もの数が存在するが、今日では意識される事が少なくなりつつあり、「個」、「匹」(動物)、「本」(細長いもの)、「枚」(平たいもの)等の多数の語に充てられる助数詞を使う事が多くなっている。

日本語の助数詞には中国語などで見られるような形容詞や指示代名詞の後に付くような用法はない。

一般に音読みの助数詞の前の数字は「いち」、「に」、「さん」と読まれ、訓読みの前では「ひと」、「ふた」、「み」の様に読まれる。音便化や連濁する事も多く、しばしば前の語の音によって読み方が変わる事がある。(例: 一匹=いっぴき、二匹=にひき、三匹=さんびき)しかし、「三回」(さんかい)と「三階」(さんがい)の例のように、現代音だけで考えると、どういう場合に連濁するか、音便化するかという法則を知るのは難しい。

助数詞が修飾する語は名詞と思われがちであるが、例えば「発」、「回」のように「殴る」、「打つ」、「やる」など、動詞を数えるのに用いるものや、「回」が「おいしい」、「楽しい」などの形容詞を、「倍」が形容詞の「明るい」や形容動詞の「きれいだ」などを修飾できるなど、他の品詞を修飾できるものもある。さらに、名詞を修飾するはずの助数詞が「ビールを3杯飲んだ」のように、動詞を修飾するかのような形式で用いられることもある(数量詞の遊離または副詞的用法)。

以下に名詞に対応する助数詞の一覧を示す(漢字表記は助数詞に「一」を付けたものとし、読みは括弧内に標準的な助数詞の読みのみを記す。必ずしも「一」を付けた時の読みとは一致しない)。なお、外来語が起源の助数詞(単位)には、一般的に算用数字を用いて表記する。(例:1バイト)

一覧
灯り - 一灯(とう)
アリ - 一頭(とう)
安打 - 一本(ほん)
行燈 - 一張(はり)
家 - 一戸(こ)、一軒(けん)、一棟(むね、とう)
イカ - 食品の場合は一杯(はい)、生物の場合は一匹(ひき)
筏 - 一枚(まい)
衣桁 - 一架(か)
遺骨 - 一体(たい)、一柱(はしら)
椅子 - 一脚(きゃく)
井戸 - 一本(ほん)、一基(き)
衣類 - 一着(ちゃく)
印籠 - 一具(ぐ)
ウサギ - 一羽(わ)
牛 - 一頭(とう)
宴 - 一席(せき)、一献(こん)
団扇 - 一柄(へい)
うどん - 麺を指す場合は一玉(たま)。一杯(はい)
映画 - 一巻(かん)、一齣(こま/シーン)、一本(ほん)
枝 - 一枝(えだ)
エビ - 一頭(かしら)、一尾(び)
烏帽子 - 一頭(かしら)
襟 - 一掛(かけ)
演能- 一番(ばん)
お年玉 - 一封(ふう)
鬼 - 一匹・疋(ひき)
斧 - 一挺(ちょう)
帯 - 一筋(すじ)、一条(じょう)
蚕 - 一頭(とう)
鏡 - 一面(めん)
掛け軸- 一幅(ふく)
駕籠 - 一挺(ちょう)
傘 - 一本(ほん)、和傘は一張(はり)
株式 - 一株(かぶ)
兜- 一刎(はね)
神 - 一柱(はしら)
(特定の場所に祀られている)神 - 一座(ざ)
蚊帳- 一張(はり、ちょう)
乾麺 - 一把(わ)、
騎馬・騎兵 - 一騎(き)
(文章の)行 - 一行(ぎょう、くだり)
銀行 - 一行(こう)
薬 - 一錠(じょう)、一カプセル、一服(ふく)、一包(ほう)、薬に包んだ散薬は一貼(ちょう)
果物 - 一果(か)、一菓(か)、果実は一顆(か)
靴 - 一足(そく/左右一組で)
袈裟 - 一領(りょう)
鏝(アイロン) - 一丁(ちょう)
琴 - 一面(めん)、一張(はり、ちょう)
米俵 - 一俵(ひょう)、一輿(こし)
ご飯 - 一膳(ぜん)、一杯(はい)
コンロ -
魚 - 一匹(ひき)、一尾(び)、一喉(こん)
酒 - 一献(こん)
砂糖 - 一斤(きん)、一叺(かます)、一貫(ぬき)
詩 - 一篇(へん)
地蔵 - 一尊(そん)
三味線 - 一棹(さお)、一挺(ちょう)
車両 - 一台(だい/自動車)、一両(りょう/鉄道車両など、ただし公営交通事業ではバス (交通機関)も路面電車などを運用していた、または今も運用している時に用いる)
銃 - 一挺(ちょう)
数珠 - 一連(れん)
食パン - 一斤(きん)
書類 - 一部(ぶ/同じ書類を作る場合)、一葉(よう)、一頁(ページ)
真空管 - 一球(きゅう)
新聞 - 一部(ぶ)
握り寿司- 一貫(かん/二個で一貫説、一個で一貫説あり)、一個(こ)
墨 - 一挺(ちょう)
相撲 - 一番(ばん/取組)、一枚(まい/番付の地位)
川柳 - 一句(く)
算盤 - 一面(めん)、一挺(ちょう)
田 - 一枚(まい)、一面(めん)
対局(囲碁、将棋) - 一局(きょく)
大砲 - 一門(もん)
タコ - 食品の場合は一杯(はい)、生物の場合は一匹(ひき)
戦い - 一戦(せん)
畳 - 一畳(じょう)
魂 - 一柱(はしら)
箪笥 - 一棹(さお)
反物 - 一反(たん)、一匹・疋(ひき、むら)
蝶 - 一頭(とう)
提灯 - 一張(はり、ちょう)、一帳(ちょう)
机 - 一脚(きゃく)、一台(だい)、一卓(たく)
鼓 - 一張(はり、ちょう)、一丁(ちょう)
壺 - 一口(く、こう)、一壺(こ、つぼ)
テープ(音響用、データ用) - 一巻(かん)
手紙(書簡) - 一通(つう)、一封(ふう)、一本(ほん)
テント - 一張(はり、ちょう)
刀剣 - 一振(ふり)、一腰(こし)、一口(くち)、一剣(けん)、一刀(とう)
塔婆 - 一基(き)
投票用紙 - 一票(ひょう)
豆腐 - 一丁(ちょう)
灯籠 - 一基(き)
海苔 - 一帖(じょう)10枚
俳句 - 一句(く)
はさみ - 一挺(ちょう)
箸 - 一膳(ぜん)
花 - 一輪(りん)
花びら - 一片(ひら、へん)、一枚(まい)
はららご(たらこ、筋子など、魚の卵塊) - 一腹(はら)
半紙 - 一帖(じょう)20枚
半導体素子(トランジスタ、ダイオードなど) - 一石(せき)(ラジオなどに使われているトランジスタなどの数)
ビデオゲームで次にプレイ可能な残されたプレイヤー数 - 一機(き)
人 - 一人(にん・たり)、一名(めい)
屏風 - 一台(だい)、一双(そう)、一架(か)
拍子 - 一拍(はく)
鰭 - 一基(き)
仏像 - 一躯(く)、一体(たい)
船 - 一隻(せき/船舶、艦船、艦艇など)、一艘(そう/帆掛舟等)、一艇(てい/ヨット、競漕ボート、艦艇など)、一杯(はい/伝馬船、艦艇など)
褌 - 一丁(ちょう)
宝石 - 一粒(つぶ)、一顆(か)
墓所 - 一区画(くかく)
墓石 - 一基(き)
本 - 一冊(さつ)、一部(ぶ)
巻物 - 一巻(かん)
幕 - 一張(はり、ちょう)
神輿 - 一基(き)
美濃紙 - 一帖(じょう)48枚
虫 - 一匹(ひき)
矢 - 一手(て)(矢二本で一手)、一条(じょう)、一本(ほん)
槍 - 一本(ほん)、一筋(すじ)、一条(じょう)、
弓 - 一張(はり、ちょう)
羊羹 - 一棹(さお)、一本(ほん)、一切れ(きれ)
料理 - 一品(しな、ひん)、一人前(にんまえ)
類人猿 - 一頭(とう)、一人(にん・たり)
霊 - 一柱(はしら)、一位(い)
和歌 - 一首(しゅ)

中国語の助数詞
中国語では「量詞 リヤンツー liàngcí」というのが普通である。甲骨文字に記された古代漢語に、すでに容器を用いて量をいう表現がみられるが、容器を用いない助数詞が普通にみられるようになるのは秦代からである。

現代の中国語(普通話)では、量詞は200種前後が用いられており、量詞に近い使い方をする単位も含めると350種以上になる。

最も常用される代表的なものは「個(个)」である。日本語と共通する漢字を用いるものでも、使える対象が異なる場合がある。例えば、「匹」はもっぱらウマ、ロバ、ラクダに用いる他、反物(この場合「疋」とも書く)にも用いるが、他の動物は「隻(只)」や「頭」を用いるなどの違いがある。

また、中国語でも、方言では対応する量詞が異なったり、使用範囲が違ったりする。例えば、椅子は、北京語や普通話では「把」を用いるが、広東語では「張」を用いる。この例では、椅子のどの部分(背もたれか座る部分か)に着目するかという違いによっているが、一般的に、標準的な形状や大きさに地域差があるものなどは、量詞にも違いが出やすい。

名詞の後に量詞を付けて、総体を指すのに使う用法もある。例えば、名詞の「人」を数えるのに用いるのは「個」や「口」であるが、「人口」というと人をまとめてその数を指す。名詞の「馬」と量詞の「匹」を合わせて「馬匹」というとさまざまな馬の総体を指す。なお、この「馬匹」という語は、日本語にもある(馬匹輸送業など)。

中国語の場合、「個」、「張」などのように、名詞を修飾するものは「名量詞」、「回」、「頓」などのように、動詞を修飾するものは「動量詞」と呼んでいる。

また、広東語や潮州語などでは、名詞の前に数詞を伴わない量詞を付けて、英語の定冠詞のように、全体の中のひとつを指す、特定化に用いる例もある。例えば、「一架車」は英語の「a car」のように、ある1台の車というイメージであるが、「架車」とすると英語の「the car」のように、話者が特定の1台の車を指していう言い方に変わる。

広東語や潮州語では形容詞の後に量詞を付けて、性状と形状を同時にいう例もある。

2009年01月17日

プレートテクトニクス理論に基づく大西洋説

現在の構造地質学、すなわちプレートテクトニクス理論に基づくと称する説もある。これは、大西洋の両岸の海岸線を近づけてもキューバのあたりで大きく隔たりがあることに意味があるとして、これを「何かが沈んだ空白地帯」と主張するものである。この「空白地帯」は大陸よりずっと小さいが日本列島ぐらいの規模はあり、ここにアトランティスがあったとする。[要出典]あるいは、大陸移動前の南北アメリカ大陸とユーラシア大陸、アフリカ大陸がひとつであった時代、大陸棚がぴたりと一致するのは南アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線だけであり、ヨーロッパ、アフリカ、カナダの間の北大西洋上には、空間ができるが、これが沈没した陸地であるとの説もある(「アトランティスの沈んだ日」クラウス・グレーバー)。なお、アトランティスの大きさについては、プラトン自身もリビアとアジア(当時のギリシャ人の考えるアジアは、アナトリア半島の事である)を合わせた大きさであると書いており、大陸というより大きな島サイズである。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

南極説
オカルト雑誌ライターの南山宏が提唱する説で、ポールシフト(地球の自転軸移動)以前の南極大陸こそがアトランティスであるという説。この説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている点であるが、そもそも大陸の気候帯が急激に変動するような自転軸移動自体が地質学的にありえないとされているので大陸沈没同様荒唐無稽な説である(詳細はポールシフトの項を参照)。

なお、南極大陸から恐竜などの温暖な気候帯の生物の化石が発見されているのは事実であるが、プレートテクトニクスでは何万年もかけて大陸が移動した証拠とされている。

大海進説
紀元前9560年頃にアトランティスが海中に沈んだとするのは、氷河期の終焉による海面の上昇とかつての陸地の水没を指すとする説。

ンド説
アトランティス大陸の正体はインド亜大陸であり、沈んだのではなくて、運河が通行できなくなったがために通交が不能になったという説。実際に古代エジプトにも、ナイル川から紅海へ抜ける運河が存在した(中国・隋代の京杭大運河に比べれば総延長は遥かに短く、技術的には不可能ではなく、トンデモ説の類いではない)のだが、常に浚渫工事を行わないと砂に埋もれてしまうがために、放置されて使い物にならなくなったのである。プラトンの記述の「島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」という箇所に着目した説である(他の説だと、プラトンの記述のこの箇所を説明できない)。

科学的研究
1939年 - ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見。同時に火山灰が厚く堆積していることも確認した。
1956年 - アテネ大学の地震学者ガラノプロスがサントリーニ島を調査。炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることが分かった。
1967年 - マリナトスがサントリーニ島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿を発見。クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったとするフレスコ画を発見。

エジプト文明との関係の指摘
『エメラルド・タブレット』は「エジプトのギザの大ピラミッドの中から発見されたとの伝説をもつが、これには歴史的に伝承されたものと近年モーリス・ドリールにより発見された「世界最古の書籍」である原本と称するものがあり、その原本には、その著者はアトランティスの祭司王トートであり、タブレットIの文頭にて『われアトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の管理者、力ある王、正魔術師にして世々代々生き続ける者なるが…』と書かれているといわれている。

また、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』によれば、原本にはギザのピラミッドはトートが造ったとも記載されていることからエジプト文明の源流がアトランティスにあることも推測ができるとしている。

ただし原本のエメラルド・タブレットは、原史料の公開もなく他に写本もないことから学者からはその正確性を疑問視されている。

フィクションへの影響
『謎の大陸アトランティス』- 1961年制作のアメリカ映画。高度な文明を誇ったアトランティスは世界征服を企むが、神の怒りに触れ、一夜にして大海に没する。ジョージ・パル監督によるスペクタキュラーなSFXシーンが見物の冒険活劇。
『指輪物語』- 作品中のヌーメノールはトールキンによるアトランティス伝説の変形である。
『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍) - アトランティスは惑星開発委員会による意図的な開発であり、高度な科学文明を有していた。海中に沈んだ後はエジプトに過去の文明を伝えながら遺民が生活している。プラトンが登場し、アトランティスの文明について調査旅行を行う。
『海底二万リーグ』- ジュール・ヴェルヌの古典的SF小説。潜水艦小説のはしりでもある。作中でアトランティスの海底遺跡が登場。記事冒頭のイラストは初版の挿絵である。
『ふしぎの海のナディア』 - ガイナックスによるSFアニメ。1990年4月13日から1991年4月12日にかけてNHK総合で放送された(2004年4月7日からNHK教育にて再放送、2007年10月に動画配信サイトで公開)。主人公ナディアはアトランティス人の末裔であり、アトランティス復活を狙う秘密結社ネオアトランティスに追われている。「原案『海底二万リーグ』」を謳い、『神秘の島』にも影響を受けている。
『アトランティス 失われた帝国』 - ディズニーによるアニメ映画。ヴェルヌ作品の影響下にあるとしているが、同時に設定等に上述「ふしぎの海のナディア」との酷似点も多く、盗作疑惑がある。
『風の大陸』 - 竹河聖のファンタジー小説。一万年以上前のまだアトランティスが沈んでいなかった時代を描いた仮想歴史小説。『巡検使カルナー』など時代を違えたシリーズ作品も複数ある。
次の3作品はムー大陸と対になって登場。いずれもムーが主人公側、アトランティスが敵側という傾向にある。
『ムーの白鯨』- 東京ムービー制作のテレビアニメ。アトランティス人は好戦的な山の民とされる。
『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』-大西洋にある海底の国としてムー(太平洋)とともに登場する。
『太陽の子エステバン』- NHK総合で放送された冒険SFアニメ。終盤での敵オルメカ人はアトランティスの末裔とされる。
昭和『ガメラ』 - エスキモーの伝説に伝わる古代アトランティスの怪獣とされている。
平成『ガメラ』 - アトランティス人が生み出した巨大生命体とされている。
『電撃戦隊チェンジマン』 - 現生の地球人はアトランティスに植民したアトランタ星人と原住の人類との雑種という設定。
『イリヤッド-入矢堂見聞録-』 -東周斎雅楽原作、魚戸おさむ画の本格考古学アドベンチャー・ロマン漫画。アトランティス伝説の謎へ挑む考古学者に、秘密結社“山の老人”の影が忍び寄る。2002年よりビッグコミックオリジナルに連載。
『天空のエスカフローネ』 - 1996年にテレビ東京で放映された全26話のテレビアニメ。物語の舞台になったのが、地球で生き残った古代アトランティス人が作り出した惑星ガイア。
『スターゲイト アトランティス』 - 2004年より米国にて(日本では2006年より)放送されているSF TVドラマ。アトランティスの人々はエンシェントと呼ばれる超古代文明を擁する種族で遥か昔に地球を離れ、ペガサス銀河へ移住し、大部分がアセンション(昇天)したということになっている。